2016年 個展「Artificial S 1 」配布物PDF

個展「Artificial S 1」の配布物
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”眠りは地平に落ちて地平”
私は知っている。 誰かがわざわざ言うまでもなく世界は在るということを。 朝起きて目覚めれば世界は在って、家から外へ出ても世界は在る。 突然雨が降ってきたからといって世界は揺るぎはしない。 いたるところに世界はある。私の世界。私たちの世界。 いたるところ— と、つい口から出てしまったけれど、そのとおりで世界はひとつでは なく複数ある。 世界はひとつではない、これは「私」がひとつでない可能性をも暗示 している。 どうしたってある世界は、人の気持ちの良し悪しといったような感性 的経験によって世界はその存在を強く成長させるよう。 経験は未来へ先立たないので、世界は過去へと向かって建築物のよ う組み上げらえているはずだ。 私たちの世界が遠い過去のどこかしらの地点にそびえ立つ構造物 だとして、それが巨大に成長しすぎていれば、近さや遠さを錯覚する こともあるだろう。遠すぎて感受・解像できずに細部を失いひとつの 「世界」という単一な様子に化けてしまうこともあるだろ う。 感受・解像する感性は外部にたいして開かれているが、感性も経験 によって養われているのだから経験されたことのないものに対して 本質的に鈍感なはずだ。 私はこの鈍感さとのつきあいかたにいつも苦労する。 鈍感さは何かを感受すると、それを”何か”にする。鈍感さに照らされ るまで、” 何か”と”何か以外”はひとつにとけあった状態だった。 感受するということは物事を照らすことに似ていて、感受するという ことは影 (照らされていないところ)をつくることでもある。 鈍感さは、照らした部分を何かと判別するわけではない、照らされな かったとこ ろを自覚することもしない。 もしも私にその時々に勇気を持つことができて、”何か”を”何か”の ままに、”自覚できないもの”を”自覚できなでき ないもの”としてま んま受け入れることができたとしたら、私はようやく”今”という地点 を足元に確認することができるだ ろう。 躍動の中に私をおいておける。命、それ自体になれる。 生きている。 ”今”へ至るまで回り道したけれど、とうとう眼前の世界に対して「あ れは何 だ?」と問う”ことができる”。今降ってい る雨で考えよう。 ”今”にいる私は世界=過去を問う。この問いがそのまま過去に向 かっているなら 答えは当然過去にあるだろう。「知っている。これは 雨だ。」 欲望・期待されるような答えはおよそ全部が過去に属している。 だけどもしこの問いに答えを見つけられないのなら、答えのある場 所は過去では く今から先の未来にある。「何だろう、わからない」(こ の時、世界=過去は世界=未来に反転してるやん) 雨を知らなければ、知るためには濡れなければならない。濡れると いう経験が、 問いそのものであり、”経験=問い”そのものが「雨!」 になる。 問うということは未来に暗闇に足を踏み出すこと。 暗闇に足を踏み入れているということは生きているということ。 脳裏に突然現れた暗闇の先に浮かぶ太陽。 まだ進んでいける。 しかし、まあなんだか疲れる。 世界は広すぎるし多すぎる。世界にたいしてどれほど問えることがで きるというのか。 へとへとになったので気晴らしに想像してみよう。 今、降ってきたこの雨が、私のはじめての雨なんだと。 はじめての雨? すごいね。おどろく。 何だこれ? ってなる。 ただの想像なのに楽しい。 あれ? でも雨ってこんなんやったっけ? 想像からぬけた私は動揺する。 知ってる雨が本当にはじめての雨になった。 この雨は春の雨で、花を散らす重い雨で、新芽を芽吹かせる温かい 雨。初めて経 験する雨だった。 おもしろい。 そうか、驚くんでいいのか。 想像して驚き、そして経験して驚く。 そうすればよい。

※ 曖昧になってたらいけないので最後にはっきりさせないといけない。世界をどうこう しているその主語は「私」「私たち」です。「私」は”麥生田”。なら「私たち」は”麥生田た ち”?なんかちゃう。「”私”たち」のうちにある”私”は「私」とはいつも一致するわけで はなさそうですね。 おわり

麥生田兵吾

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