“showcase #番外: スナップショット、それぞれの日々 ”について

2017/1/29 23:34  facebookにて投稿

トークしました。
多くの方々に来て頂いて本当に嬉しかったです。
慣れないトーク、1時間って凄い長いと思っていましたが、あっという間に終わりました。
トークで言い足りなかったことがありますので殴り書きます。
乱文になること先に謝ります。

この展覧会、私はとても写真という表現を問うにあたって重要な役割を持つことができていると感じています。
「showcase #番外:スナップショット、それぞれの日々」とタイトルにあるように、作家三名それぞれがスナップショットを展示しています。
ランダムに匿名の状態で展示されてます。この写真群を、誰か1人の撮影者が撮ったと言い切ったら判別できないように一見みえてしまいます。
だけど、さっさと言うと、匿名であってもよくよく見ると、どの写真がどの作家が撮影したものかが「わかります」。
「わかります」ので答え合わせをすると、「間違え」ることも起きます。
「間違え」を起こすとき、人(私)の内面で何かが壊れる感触を覚えます。
壊れるののは何か?
イメージです。このイメージは一体何なのか、誰のもでもないイメージ。
壊れることで、”誰のものでもないイメージ”があったことを知ります。
私はこのイメージの発見に驚いています。まあそれにしても”私”のイメージには違いないのですが、それでもなお。
で、そもそも”スナップショット”ってなんだ?ってもなります。
スナップショットを考えるうえで身近で分かりやすいのは、「家族写真」とかでしょう。
家族、ペット、親戚、友達、お気に入りのものたち。そんなものが綴られている。
この綴りは「コンテクスト」といえるでしょう、あるいは「そういう集合」。
そしてスナップ写真は鑑賞されるとき、しばしばそのコンテクスト・集合から切り離された状態になります。
※作家や写真家はその切り離しの「術」に執心します。”編集”と言われる行為など。”個人の眼差し”などといった「作家の個性」というコンテクストにまとめるなど。
切り離されることで、「何かから切り離された」という不明性をスナップショットは持つのでしょうか?
今展覧会は、作家のコンテクストから切り離され、そして展覧会の名のもとに一つの匿名の集合体となっています。
集合体です。集合するのですから、ここでコンテクストは発生しないでしょうか?
発生するとしたら、何をみつけるでしょうか?
発生しないとしたら、スナップショットの不明性はどこに漂うのでしょうか?
疑問ばかりですが、確かなことは、一枚一枚の写真が生々しさを取り戻す瞬間に私は出会ったということ。その時の私は写真家ではなかったということ。喜びですね。

乱文ごめんなさい。

 

 

展覧会“showcase #番外: スナップショット、それぞれの日々 ”について
会場:ギャラリーメイン http://www.gallerymain.com/home.html
1月25日 (wed.)ー2月5日(sun.)

作家:中川佳宣(なかがわよしのぶ)
         麥生田兵吾(むぎゅうだひょうご)
         いくしゅん
キュレーター:清水穣

Posted under other