私はこのブログ形式の「 pile of photographys 」の場で、写真を積み重ねています。
これは感性の回路を繋げようとするものです。
私は主題として「Artificial S.」を持っています。 http://hyogom.com/
「S.」は「感覚(性)=sense」という意味を持たせています。
ですから「Artificial S.」は、「人間の手により作られた感性」というような意味です。
人間とは「私」にほかなりません。
言葉で表現されるように感性は磨いたり、研いだりするものです。(そう言ってしまいましょう。)
そうしてようやく世界に適した、または鋭敏なものとなります。(そう言ってしまいましょう。)
そう言うと、うさんくさい、自由意志を謳うばかりの人の傲慢さを感じずにはいられません。
しかし、「私」が「世界」に出会うことに成功した時(最初からその一部であったと知る時)、
感性というものの存在を確かに見つけることができます。
そして同時に、感性は(私ではなく!)「世界」によって彫刻されていることに気づくでしょう。
「 pile of photographys 」は、主題「Artificial S.」を構成する一部であり、
その活動は主題の基礎を構築するものです。
私の幸福や不幸は、私のものでしょうか?
保留すれば、私はそれらの所有権を失うでしょう。
しかし失っても、豊かな国においては、誰か”代わりのもの”を貸し与えるでしょう。
そして私は、「世界」に出会うために必要な「私」を失います。
「善い」は人によってつくられます。
「悪い」も人によってつくられます。
ですから、積極的に関わる人の手によって、多くの事を変えられるはずです。
もし、「自分の後の世代が考えればいい」、そう思っている人がいるのでしたら、
それは「死ぬ」ということを想像できていません。
「死ぬ」=「生きる」。
死ぬのがわかってしまったのに、なお創造的に生きることができるのは、
続く世代へ大切なものを繋げていきたいと願っているからに他なりません。
「死ぬ」=「生きる」までを、他者に譲渡してはなりません。
明日7/21、日本は参議院選挙です。よい日曜日になりますように。